マイクロ保険

所属機関の発行している
「アジ研ワールド・トレンド」
http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Periodicals/W_trend/
という途上国開発に関する一般向け雑誌の最新号(8月号)に、
マイクロ保険に関する文章を寄稿したので、
その初稿を以下にアップ。


同じ号では、
<貧困削減のための制度的イノベーション-経済学に基づく実験>
という特集タイトルで、
山形辰史氏が「ワクチン買取補助金事前保障制度」
同期の高橋和志氏と町北朋洋氏がそれぞれ
ワークフェア-雇用を通じた貧困削減」
「条件付き所得移転-教育の政策評価が切り拓く制度革新」
というタイトルで寄稿しています。


マイクロ保険の挑戦―貧困層をリスクから守る試み

リスクの脅威
 世界の貧困層の大多数が途上国の農村に住んでいるが、彼らの生活は、旱魃、洪水、凶作、家畜の病気、作物価格の変動など、様々なリスクにさらされている。また、病気や事故による医療支出や、一家の大黒柱の死亡による収入の激減も、大きなリスク要因である。貯蓄は乏しく、低利での借入れも困難な貧困層は、これらの負のショックに対して、土地や家畜などの生産資本の売却、高利貸しからの借金といった対応を余儀なくされる。生産資本の売却によりその後の収入は減少する一方、借金の金利はどんどん膨らみ、到底払いきれない金額にまでなってしまう。最近、インド中部のチャッティースガル州で、旱魃で作物が全滅し、借金が返せなくなって農民1500人が集団自殺してしまったというショッキングなニュースがあったが(2009年4月)、このことは、途上国の貧困層が直面するリスクが、彼らの生活にとっていかに脅威かということを如実に物語っている。

貧困層に保険を
こうした様々なリスクから貧困層を守る試みが、マイクロ保険と呼ばれる貧困層向けの保険である。途上国農村において人々がいかにリスクに対処しているかについて、1990年代から多くの実証研究が蓄積されてきたが、負のショックに対して、人々はある程度はコミュニティやネットワークの中でリスクをシェアしてはいるものの、消費水準の減少を余儀なくされること、特に旱魃など村全体に対する負のショックの場合には、コミュニティ内でのリスクのシェアが困難で大幅な消費水準の低下を余儀なくされること、借入れ制約に直面している家計の方が消費水準の低下が大きいことが分かっている。よって、旱魃や洪水、家畜の伝染病などコミュニティ全体が被害を受ける負のショックに対する保険や、他からお金を借りるのが困難な貧困層向けの保険の必要性が大きい。こうした観点から、いくつかのマイクロファイナンス機関(MFI)は、保障内容を限定し、貧困層でも購入可能な程度に保険料を低く設定したマイクロ保険を販売するようになった。

マイクロ保険の挑戦
リスクに脆弱な貧困層のためにマイクロ保険を販売するという試みは、しかしながら、多くのチャレンジを抱えている。マイクロ保険の多くは、低い加入率に苦しみ、加入したとしても保険を継続する割合が低いという問題に突き当たっている。また、洪水や旱魃によって想定を超える保険金支払いが生じて財政が破綻してしまい、保険プログラムを維持できなくなってしまったMFIもある。貧困層でも簡単に理解できるようにシンプルな保険スキームにしているために、保険市場の情報の非対称性の問題(後述)が大きくなってしまっていたり、保険料が低いために取引コストが回収できなかったりして、恒常的な赤字体質で、外部からの寄付・補助金に依存していることがほとんどである。以下では、情報の非対称性の問題について、主に健康保険を例にして論じた後、情報の非対称性の問題に対処する伝統的な方法、そして情報の非対称性の問題を克服する新しい保険スキームであるインデックス保険について紹介する。

情報の非対称性の問題
(A)逆選択
保険市場における逆選択を、健康保険を例に取って説明しよう。逆選択とは、病気になるリスクの高い人ほど保険に入ろうとするために、保険金支払いが多くなってしまい、保険プログラムを財政的に維持するために保険料を上げると、病気になるリスクの低い健康な人は保険を買わなくなり、結局、保険を買うのは病気になるリスクの高い人のみになってしまう、という現象のことである。リスクの高い人々のせいで保険料が引き上げられ、リスクの低い貧困層に対して割に合う保険が提供できなくなってしまうわけである。
日本の任意健康保険では、高齢になるほど病気になるリスクが高くなるという統計的事実を利用し、年齢に応じて保険料を高くするというリスクに応じた価格付けを行って逆選択を緩和しようとしているが、貧困層を対象とした現行のマイクロ保険は、貧困層でも簡単に理解できるようにという意図もあって、保険料は誰でも同一である。その結果、病気になるリスクの高い人ほどこぞって保険を購入し、保険金支払いが増大して恒常的な赤字になってしまっている。
また、既往症を保障の対象に含めているのも、逆選択を助長してしまっている。マイクロ保険を売るNGOの中には、安価な医療を提供するのがマイクロ保険の目的だとして、緊急に手術が必要な人にも保険を売って手術を受けさせている。あるいは、保険会社から課された契約者数のノルマを達成するために、わざわざ病気にかかっている人を見つけてきて保険に加入させるケースもある。しかしながら、既往症も保障されるのであれば、人々にとっての最適戦略(加入手続きにかかる時間が無視できる場合)は、病気になったら保険に入り、病気が治ったら保険を解約する、ということになる。これは、「同一個人の異時点間の逆選択」とも呼べるもので、もしも全ての人が、保険に入るのは病気になってからでいい、病気が治れば保険を更新する必要はない、と考えるのなら、現在病気の人以外、誰も保険には入らなくなってしまう
そもそも保険とは、将来生じるリスクのためにお金をプールし、運悪くショックを受けた人にその分を保障する、というメカニズムである。既往症はすでに生じたショックであり、「手術が現在必要な人への安価の医療の提供」は、保険ではなく、別の補助金プログラムで行われるべき性格のものである。既往症を認めている現状は、将来のリスクをシェアする保険というよりは、貧困層から保険という形でかき集めたお金を手術が必要で保険に入った人に渡すという、所得移転の要素が強い。

(B)モラルハザード
 保険のモラルハザードには二種類ある。保険があれば病院に行っても安く済むので、保険がない場合に比べ、病院の利用回数が増えて保険支払い額が大きくなるのが「事後的モラルハザード」、一方、病気になっても安く治療を受けられるので病気予防のインセンティブが下がり、病気になって保険を使う確率が高まるのが「事前的モラルハザード」である。事前的モラルハザードは病気になるかどうかの確率に影響を与え、事後的にモラルハザードは、病気になった場合に病院に行く確率に影響を与える。
 家畜保険では、家畜が死んでも保険金が支払われるので、注意して家畜の世話をしなくなったり、重労働をさせて家畜の寿命を短くしてしまう、というモラルハザードがある。また、穀物保険では、穀物がだめになっても保険である程度保障されるので、穀物の管理にそれほどの労力を使わなくなるというモラルハザードがある。
モラルハザードは、結果(病気、死亡、不作など)に応じて保険金支払いを決める保険スキームでは避けられない問題である。ただ、一般的にモラルハザードは社会厚生を低下させるが、貧困層が借入れ制約に直面し、長期的に見て本来は受けるべき手術も現在手元にお金がないから受けられない、というケースでは、保険の提供が社会厚生の上昇をもたらすこともある。

情報の非対称性への伝統的な対処方法
先進国の保険市場を対象にした実証研究のいくつかは、情報の非対称性の問題が重要ではないケースを報告している。それは、先進国の保険では、情報の非対称性の問題を緩和するようなメカニズムが採用されているからである。
その一つが、リスクに応じた価格付けである。リスクの高い人には保険料を高く、リスクの低い人には保険料を低く設定すれば、リスクの低い人にとっても保険が割に合うものになり、逆選択の問題が緩和される。リスクは観察不可能な変数であるので、現実的には、年齢や病歴、家畜の状態、農地の状態など、リスクを代理する変数を考慮した価格付けを行うことである。既往症を保障しない、ということも、同価格で保障内容を変える、という意味で、リスクに応じた価格付けである。ただ、高齢者ほど保険料を高くするのは、ほとんどの新興開発国で、年配層ほど学歴も低く、収入も不安定で低いことが多いので、貧困削減戦略の一環としてのマイクロ保険の性格上、公平性の観点から実施は困難かもしれない。
リスクに応じた価格付けの方法として、保険料は高いが保障も大きいタイプから、保険料は低いが保障も小さいタイプまで、いくつかのタイプの保険をメニューとして提示する、という方法もある。リスクの高い人は保険料は高いが保障も大きいタイプを選び、リスクの低い人は保険料が低く保障も小さいタイプを選ぶようになるので、被保険者自身の選択により、リスクに応じた価格付けが可能になる。こうした複数の保険のメニュー提示により、逆選択の問題の緩和が可能である。
 また、先進国の自動車保険では、事故を起こさなければ翌年以降の保険料が安くなるシステムを採用している。健康保険でも、病院に行かず保険を利用しなければお祝い金がもらえるという、同じ趣旨の制度がある。リスクの高い人ほど事故を起こす確立や病気になる確率が高いので、このような「動学的価格付け」により、リスクに応じた価格付けが可能になると同時に、事故を起こさないようにしよう、病気にならないようにしよう、というインセンティブを人々に与える。このような動学的価格付けが、マイクロ保険市場における逆選択モラルハザードの問題をどれだけ緩和できるのかという点について、筆者は現在インドでフィールド実験を実施中である。MFIの中には、あえて人々が積極的に病院に行くようにすることで、病気が悪化してさらに高度な治療が必要となって保険支払いが高くなるのを防いでおり、保険利用のコストを将来の保険料という形で高める動学的価格付けに反対する人もいるが、この仮説を含め、どのような保険スキームが望ましいのか、このフィールド実験で明らかになるはずである。
 最近いくつかのMFIがとっている戦略は、マイクロクレジット(MC)参加者を強制的にマイクロ保険に加入させることである。投資のためにMCを利用する人は健康リスクも比較的低いと考えられ、かつ強制加入によって逆選択の問題も回避されるので、保険料を低く抑えられると期待される。ただし、それまで買われなかったマイクロ保険購入をMC参加者全員に強制すると、MCに参加する人の数そのものを減らしてしまう可能性がある。実際、マラウイで以下に紹介するインデックス保険をMCに抱き合わせて販売するというフィールド実験が行われたが、抱き合わせて販売したことで、MCへの参加率が4割弱減少してしまった。

インデックス保険
 最後に、新しい保険スキームであるインデックス保険について説明する。インデックス保険とは、保険金支払いを、公的に立証可能なインデックスに基づいて行うスキームで、代表的なものに降雨量保険がある。降雨量保険とは、各地方に設置した降雨量計測器のデータに基づき、ある期間中の降雨量がある水準以上かある水準以下ならば保険金を支払うというものである。途上国の農作物収量変動の最大の要因は、洪水や旱魃といった降雨量の変動であるが、降雨量保険を買うことで、天候による収入の変動リスクを軽減できる。
 このようなインデックス保険の望ましい点は、降雨量など、個人のリスクの大きさや行動とは関係のない指標によって保険金が支払われるために、保険をより多く使いそうな個人ばかりが入ってしまうという逆選択の問題がない点と、天候がよければ、別の理由(不適切な作物管理など)で不作になっても保険金をもらえないので、作物の世話をきちんとしようというインセンティブが維持され、モラルハザードの問題も緩和される、という点にある。
インデックス保険で用いられるインデックスは、(1)インデックスの値が参加者によって操作されないこと、(2)インデックスの計算方法が明快で第三者に対し立証可能であること、(3)保険の適正な価格が計算できるように、インデックスに関する過去のデータが十分にあること、(4)費用節約およびタイムリーな保険金支払いのために、インデックスの計測に費用や時間がかからないこと、(5)インデックスの実現値が、本来リスクから守りたい家計の所得水準と密接に相関していること、などの基準を満たす必要がある。降雨量は、農作物の収穫と相関が高く、既存の気象庁の降雨計測器を用いるので計測に費用も時間もかからず、時系列データも十分にあり、透明で偽造もされにくいので、非常に有効なインデックスである。ただ、長期的な降雨量のデータが少ない新興独立国や戦争の多かった地域、気候変動の影響がありそうな地域については、適切な価格の計算が困難であり、価格が過少に計算されてしまった場合の損失補填をする外部からの補助金が必要となるであろう。本論文の次に掲載されている本郷稿では、気候変動・天候異常により増大するリスクから、途上国農村の人々を守るための降雨量保険の取り組みについて、詳しく解説されているので、興味のある読者はぜひ参照されたい。
 降雨量はシンプルで透明なインデックスではあるが、人々の直面するリスクの要因は、降雨量だけではない。また、降雨計の接地された場所では降雨量が適度でも、少し離れた地域では降雨量が過少・過多のこともあるかもしれない(ベーシス・リスク)。こうした問題を緩和するために、降雨計の設置場所を多くしたり、作物や家畜の病気のリスクにも対処するために、伝染病蔓延に関する公的なデータをインデックスに組み込んだり、家畜の健康状態に影響を与える牧草量のデータとして、衛星画像で見た当該地域の緑の濃さをインデックスに組み込むこともある。

おわりに
 インデックス保険の出現により、貧困層への保険提供の可能性は、大いに広がった。しかし、現在までのところ、降雨量保険への参加率はあまり高くなく、健康保険など、全ての保険がインデックス保険で置き換えられるわけでもない。
マイクロ保険の多くは、外部からの補助金が導入され、価格は、ほぼ保険公正的な水準に設定されている。そして、インデックス保険では、逆選択などの問題もないので、経済理論が想定するリスク回避的個人であれば、このような保険は購入すべきである。しかしながら、多くの家計は、このような保険ですら購入していない。その理由として、貧困層は信用制約に直面しており、保険料を支払うことで犠牲にする投資などからの収益が高いために購入しない、保険についてよくわかっていないために購入しない、人々は損失に関してはリスク愛好的(プロスペクト理論)、などが現状では候補として挙げられているが、人々の選択を理解し、人々をリスクから守る適切なメカニズムを考えていくために、さらなる研究の蓄積が必要である。