「夢に向かって突っ走れ」

夢はいつも空高くあるから
届かなくて怖いね
だけど追い続けるの
自分のストーリーだからこそ諦めたくない
不安になると手を握り一緒に歩んできた

その優しさを時には嫌がり
離れた母に素直になれず

ほら足元を見てごらん
これがあなたの歩む道
ほら前を見てごらん
あれがあなたの未来


前から大好きだったこの曲。
この曲を聞くたびに、父を思い出す。


中学校の卒業式。
PTA会長だった父は、壇上であいさつした。
内容はもう忘れてしまったが、最後の言葉だけはしっかり覚えてる。
「夢に向かって突っ走れ!」
そう叫んだ。


父は、いつもいつも、
自分の考えを尊重してくれた。


中学3年の時、高校に行くつもりはないと言ってた時も、
特に反対もせず、
よく考えてお前の思うとおりにやってみろ、
と言ってくれた。


大学院に進もうと思った時も、
うちは経済的には非常に厳しかったが、
父さんが何とかするから挑戦してみろ、
と言ってくれた。


うちはかなり貧しかった。
だから自分も貧困問題に興味を持った。
借金だって何千万とあった。


父は高校野球でピッチャーをやってた。
野球が父の青春時代そのものだった。
コントロールの良いピッチャーで、地方の古豪のエースだった。
県大会の準決勝、7対2くらいで勝っていた。
監督が、決勝に備えて休めと父にリリーフを送った。
そのリリーフ陣が撃ち込まれて逆転負け。
父の高校野球は終わった。


その後、父は国鉄に勤めた。
最初は野球もやっていたが、
体の小さい父は周りの体の大きい選手たちに負けまいと無理をして
肩を壊してしまった。


それから父は、労働運動にのめりこんでいった。
マルクスレーニンの本を読んで、
埼玉大学の教授にもいろいろ教えてもらって、
労働運動を引っ張ってあちこちで演説などもした。
30代ですでに労働運動のリーダー格だった。
父は、純粋で、まっすぐで、行動的で、情熱的だった。


そのうち労働運動も下火になってきた。
当時自衛隊に行っていた弟が腎臓を悪くして退職していたのもあって、
二人で運送会社を作った。
その後、運送会社は弟に任せて、農業ハウス建設会社を作った。
労働運動で労働者の待遇をなかなか良くできないなら、
せめて自分で会社を作って労働者の待遇を良くしようという思いもあった。
最初は、経営状況もそんなに悪くはなかった。
学校から帰ると
家の庭に建てられた工場と事務所によく行ってた。
1980年代だったが、事務所にはコンピュータもありコピーもありそのうちFAXも入ってきた。
1階に農業ハウス建設会社の事務所があり、2階は運送会社の事務所だった。
従業員も10人以上いた。
俺は、一応「社長の息子」だった。


バブルが崩壊してから、景気は悪くなった。
その前から母は「不景気だ、不景気だ」と言ってたけど、ますます不景気になった。
少しずつ従業員も減っていった。
さらに、弟が死去し、連帯保証人としての借金ものしかかった。


ある時、大企業から長野での仕事を請け負った。
500万くらいの事業だった。
従業員が少なくなっていたので、
その企業からも作業員を出してもらった。
しかし、その作業員が不慣れなこともあって仕事ははかどらず納期は遅れ、
その作業員の日当として1日4万を請求され、
父の手元にはほとんど残らなかった。
何カ月も一生懸命頑張った仕事がタダ働きに終わって、
精神的なショックと肉体的な疲れから、
しばらくの間父は寝込むようになった。
白い便が出始めたのもこの頃だった。
俺は、絶対にこの企業の仕打ちを忘れないと思った。


父と母と祖母の仕事を手伝いながら、
どうやったらうちは貧しくなくなるんだろうとよく考えた。
でも、父と母と祖母とで何をやったら今よりいい暮らしができるようになるのか、
まったく見当もつかなかった。
50歳近い、農業ハウス建設しか経験のない父や母が、
何か別のことを始めたら収入が大きく増えるなんてことが起こるほど
世の中は甘くない。
だから、マイクロクレジットが貧困削減に対して大きな効果を持たないという研究結果も、
まったく驚きはない。
ただ、誰かが父に、マネジメントなり経営方法について教えてくれたらな、とは思った。
だから、途上国企業のマネジメントの研究は非常に興味がある。
最近は自分で起業する若者も多いけれど、
そんな父を見ているからか、自分で何か起業する気には全くなれない。


農業ハウスの需要がほとんどなくなってからは、
自分で作ったハウスで花栽培を始めた。
野菜も作って、新しくできた地元の直売所にも売るようになって、
今度は直売所を通じて何とか地元を振興しようというのが生きがいになった。
直売所を良くするために、直売所の社長とも何度もけんか腰の議論をした。
直売所に持ち込む農家は15%のコミッションを取られるのに
直売所内に大きなスペースを与えている身内の八百屋(しかもあまり新鮮でない売れ残りも置いてる)には10%のコミッションしか課していないのは
正義感の人一倍強い父には許せなかったみたいだ。


その父が、8月4日、亡くなった。
すい臓がんの手術を受けたのが4年3か月前、
肺がんが見つかって右肺を全摘したのが2年弱前。
肺に何か影があるというのは3年前から分かっていたけれど、
当時通っていた深谷日赤の医師は、
ずっと癌じゃないようだと言い続けてた。
でも、2年前に影が大きくなって、別の病院に行ってPET検査を受けたら、癌だということが分かった。
しかもリンパ節にも転移しており、ステージⅢBで、
2年後の生存確率は1/3という状況だった。
だから、途上国の医師の診断が結構な確率で間違っているという研究結果を読んでも、
たいして驚きはない。


8月1日、昼前から夕方まで父の病室にいた。
結構脳もやられていて、幻覚症状もひどかったけれど、
ずっとベッドの横にいる自分を見て、
「時間を無駄にするな」
と言った。
自分が瀕死の状態であるにもかかわらず、
息子には、走ることをやめるなと訴えかけている。
そんな父の想いにこたえて、
自分は、今まで、どれほど夢に向かって突っ走れただろうか。


8月2日の夜、父の病室に泊まり込んだ。
昨日よりさらに幻覚症状はひどく、記憶もあいまいになっていた。
夜中には、歩けもしないのに、どこかに行こうとベッドから起き上がろうともした。
もうかみ合った会話もできなくなっていたので、昔のことを聞いてみると、
いろいろと話してくれた。
インタビューでも受けていると思ったのか、なぜか敬語になっていたけれど。


8月3日、11時に病院を出てそのまま空港に行く予定だったが、
11時になっても父は目を覚まさなかった。
出発する前に、父の耳元で話した。
「父さん、今までありがとう。もう頑張らなくてもいいよ」


次の日、父は亡くなった。
日本からボストンの家について、数時間後のことだった。


待っていてくれたんだと思う。
7月11日に再入院した時はもう歩けなくなっていて、医者からももう長くはないですよ、と言われていた。
7月末にようやく日本に行って病院に見舞いに行った時、
「根性があれば生きられるんだよ」
と言っていた。
本当に根性で生きていたんだと思う。


お寺の住職さんは、父の中学時代の同級生だった。
さいころから父を知る住職さんは、
戒名として、
「闘魂」
とつけようと思ったと話してくれた。
甲子園を目指してひたすら努力し、
労働運動に情熱をつぎ込み、
会社を成功させようと奔走し、
直売所を通じて地域振興しようと情熱を燃やした、
その闘魂でもって、
仏の道まで一直線で突っ走っていると思う、
と話してくれた。


子供は親の背中を見て育つというけれど、
自分にとっての父の背中は、
人情であり、
根性であり、
苦労であり、
正義感であり、
子供への信頼だった。


父さんの年齢が68歳、俺が34歳、
父さんの人生の半分を子供として一緒に過ごすことができて、
とても誇らしく思っています。
父さんが植えてくれた種をどこまで大きくできるか、
ずっと見守っていてください。