ラグビー版Field of Dreams?

ちょっといい話。

http://www.1242.com/goodday/index.php?id=3&YMD=2008-08-05
からそのままコピペ。

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自宅の畑にラグビー場をつくった、中学校の校長先生

埼玉県深谷市・・・、「深谷ネギ」の産地として知られていますが、
いま、自宅前の畑を、本格的なラグビー場に作り替えている人がいます。
その方は松島伸一さん。55歳。深谷市立明戸中学の校長先生です。
松島さんは、日体大ラグビー部で活躍し、大学を卒業後、
最初に、深谷市内の小学校の先生になりました。
「子供たちにラグビーの楽しさを伝えたい」と
体育の授業にラグビーを取り入れ、日曜日に地域の子供たちを集めた
ラグビースクール」も開きました。
また『深谷市ラグビーフットボール協会』を発足させるなど、
松島先生を中心に、深谷市ラグビーが普及していきました。
しかし埼玉県の公立中学校にはラグビー部が1校もありませんでした。
(小学生にラグビーを教えても、中学で途切れてしまう!)、
そこで松島先生は教育委員会に中学校への転勤を希望します。
赴任先は、クラブ活動があまり盛んでない明戸中学校でした。
ラグビー部の設立には、PTAから「中学生には危険」
という声が上がりました。
そこで、松島先生にどれだけの指導力があるのか、
校長先生が、こう、提案をするんです。
「バレーボール部を県大会に出場させたら、ラグビー部を認める」
深谷市の中学校の中で、一番弱かったバレー部を、
松島先生は2年目で優勝させ、県大会への出場を決めてしまいます。
その指導力が認められ、1985年、埼玉県の公立中学で、
初めてのラグビー部が誕生しました。
当時、明戸中学の男子生徒は150人ほど。
ラグビー部に入ったのは、そのうち70人。
つまり男子生徒の2人に1人がラグビー部員でした。
毎朝7時20分から「朝練」が始まり、土日も練習でした。
キャプテンが練習時間に遅刻すると松島先生のビンタが飛びました。
そんな体罰にも親は何も言いません
「あの先生に殴られるのは、お前が悪いからだ!」という時代でした。
明戸中学ラグビー部は、めきめき力をつけ、関東大会で優勝! 
さらに、東日本中学校大会にも進み、ここでも優勝します。
慶應中等部」のラグビー部が練習試合を申し込んできたこともありました。
その活躍が注目され、
埼玉県内の中学校でラグビー部が次々と誕生し、
1995年には、25校にまで増えました。
しかし、その後は、「少子化」と、「指導者の転勤」、
「サッカーブーム」もあって、ラグビー部の廃部が相次ぎ、
いまは10校に減っています。
去年、校長になって明戸中学に戻ってきた松島先生は
ラグビー部の練習を見て、愕然とします。
かつて70名もいた部員は13人に減り、
人気のテニス部の邪魔にならないように、校庭の片隅で練習をしていました。
ラグビーの低迷は中学校だけではなく、高校や社会人など、
埼玉全体のレベルが落ちていることに、松島先生は危惧しています。
一番の問題は、環境面です。思いっきりラグビーを楽しめる
芝生の専用グランドが深谷市にありません。
松島校長は、定年まであと4年ですが、(それまで待てない)と、
こつこつ貯めた貯金を使い、教え子の建設会社に依頼し、
自宅前のヤマトイモの畑をラグビー場に作り替えました。
オープンは、芝がしっかり根付く来年の秋になるそうです。
松島先生は、ラグビーの魅力を、こう言います。
「野球やサッカーは上手な子と下手な子で差がつきますが、
ラグビーは、太っている子供も、背の低い子供も、足が遅い子供も、
気が弱い子供も、誰にでもボールを持つチャンスあるスポーツです。
技術がなくても、みんなで助け合って、ゴールを目指す、
それがラグビーの魅力です。」
「日本一の体育教師になりたかった!」という松島先生。
校長先生になっても、熱血教師そのまま・・・。
夢は、このラグビー場から、日本代表選手を生み出すことだそうです。

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実は、この熱血教師、中学時代の先生。
今になってこの記事を読んで振り返れば、すばらしい先生だったんだなと思うけれど、
当時は、とにかく怖かった。
友人がビンタされているところを見たこともある。


自分は野球部だったので、体育の授業くらいしか教わる機会はなかったけれど、
ラグビー部の練習はすさまじかった。
隣同士で練習していたが、
気絶したり体力的に厳しくて倒れこんだ人に、やかんで冷水をかけて気合を入れなおさせてまた練習させていた光景は、今も目に焼きついている。
ラグビー部に入ったやつらは、どんどん足が太くなっていって、どんどん足が速くなっていった。
明戸中学が東日本大会で優勝したときは、自分は中学1年だった。
集会で、ラグビー部の奮闘がたたえられて、
試合中の、「あきらめるな、最後まであきらめるな」というキャプテンの声でみんな最後まであきらめずに戦って逆転したという話も、これまた今でも記憶に残っている。
ラグビーマガジンで見開き2ページで紹介されたり、高校で花園に出場したり、日本代表候補に選ばれた同級生もいる。
ラグビーを生涯の仕事にしていく人、
ラグビーにかけてきたけれど結局成功できなかった人、
ラグビーをやめて別の人生を歩んだ人、
ラグビーを通してたくましさやいろいろなものを身につけた人、
厳しさの裏側にあるものを理解できずに反発していた人、
ラグビー部に入っていなくてそんなに接点もなく、ただ怖いという印象だけしかなかった人、
いろいろいて、百人が百人、この先生に感謝しているわけではないかもしれないけれど、
「この先生がいなければ、今の自分はなかった」と、後になって思う人が多い教師だったと思う。
分野ややろうとしていることにいろいろ違いはあるけれど、


サウイウモノニ
ワタシハナリタイ